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    日本人町跡  
    ゴ·リアン地区に位置。16世紀も末になると、より多くの外国人が交易のためにタイを訪れるようになった。日本の朱印船も、東南アジアの国々を訪れるなか、アユタヤに至り、他の外国人同様、自分達の町を作ることを許された。その後アユタヤを訪れる日本人の数は増えていき、自分達の頭領を持つようになった。なかでも、山田長政は有名で、ソンタム王の寵愛を受ける中、最高の官位であるオカヤ·セナ·ピムックにまで上り詰めた。1628年、王が亡くなると、山田長政は、王子派につき、王弟派によるナコン·スィータマラートの反乱を鎮圧。同地の総督に任命された。1639年没。タイ-日友好協会によって建てられた石碑に、町の歴史が刻まれている。1990年、日-タイ友好100年を記念して、観光名所となるべく整備された。
 
  ウィハーン·プラ·モンコン·ボピット

    ブロンズと金箔で覆われたレンガ造りの本尊は、1538年、チャイラーチャ王の治世下に作られ、当初はチチアン寺院の境内に祭られていた。その後、ソンタム王の命により、像はプラ·スィー·サンペット寺院の南西に移され、モンドップ(仏像の上部を覆う円錐傘)が掛けられた。しかし、プラ·チャオ·スア王の時代、落雷のためこのモンドップは消失し、本尊の首にも傷が残った。幸いその際の傷は、同王の命令によりすぐに修復されている。1767年のアユタヤ陥落の際、このウィハン·プラ·モンコン·ボピットは、徹底的に焼かれ、本尊の右腕と頭部も破壊された。その後、ラーマ5世、チュラロンコン大王の時代、アユタヤ県知事プラヤ·ボランラーチャタニにより、像は新たにしっくいと金箔が施されるなどして修復された。この仏像の取る型は降魔印(*)と呼ばれ、修行を妨害しようとする悪魔を服従させる仏を表現している。その大きさはタイ国内でも屈指のものであり、この本尊の名前がそのまま寺院の名前となっている。
 
  王宮跡

 

    アユタヤ王宮の面影を、今もその跡地にて伺い知ることが出来る。当初王宮は、初代ウートン王によりウィアン·レックの地に建設されたが、1353年、新都建設が完了すると、現在プラ·スィー·サンペット寺院のあるノン·サンの地に移された。全ての建物は木造であったと言われる。その後1448年、ボロム·トライ·ロカナット王により王宮はプラ·スィー·サンペット寺院に寄進され、新たに新王宮がロッブリー川の北側に建てられた。新王宮内には、幾つものホールが建てられていたが、それが今も王宮跡として知られている。代々アユタヤ王の居城とされたこの新王宮は、北側市壁側、チャンカセム宮殿から2キロの場所にある。 

 

開場時間:8:30~16:30(年中無休)

詳細は、電話番号:035-242284まで。


王宮内には、以下の様な価値ある建物が数多く残されている。
ウィハーン·ソムデット·ホール 王宮跡南側に位置し、その屋根から突き出る石造りの仏塔(プラーン)が特徴。切妻屋根の廂部分は、前方と後方部が広く、両脇部分が狭くなっており、何れも壁で囲まれている。記録によると、このホールは1643年、プラサート·トン王の命により、落雷のため消失したマンガラピセク·ホールの代わりとして建てられた。金箔を施された最初の建物だったため、当時の人達の間では、?プラサート·トーン(黄金のプラサート)と言う名前で親しまれていた。様々な王室行事に利用されていたと言う。
サンペット·プラサート·ホールウィハーン·ソムデット·ホールと同じ建築様式が用いられているこのホールの特徴は、前方の広い柱廊玄関。当時は、外交使節団用応接の間として用いられていた。このホールの両側にある小屋では、王室を保護する存在として神聖視されている白象が飼われていたと言う。
スリヤット·アマリンドラ·ホール アユタヤの街を囲む市壁の内側、チャオプラヤー川岸に位置。三層切妻造りの屋根を持つこのホールは、当初?サリヤマリン·ホール?と言う名前で呼ばれていたが、その後サンペット·プラサート·ホールの名の響きに似せ、スリヤット·アマリンドラ·ホールと改名された。チャオプラヤー川を行く船行列を見物するため、その床は外のホールのものより高くなっている。
ジャカワット·パイチャヨン·ホール1632年、プラサート·トン王の命により、王宮の内側城壁に建てられた。当初?スィーヤソトーン·マハピマンバンヨン·ホール?と言う名が付けられたが、後に?ジャカワット·パイチャヨン·ホール?と改名された。アンコール·ワットに似た建築様式で、三層切妻造りの屋根を持つこのホールは、王が行列を見物したり、閲兵する際に用いられた。バンコク王宮内で言えば、プッタイ·サワン·ホールに相当する建物である。
トリ·ムック·ホールサンペット·パサート·ホールの裏手にある。このホールの建設年は不明だが、後宮庭園内の休憩所として使用されていたと思われる。
バンヨン·ラッタナ·ホール(タイ·スラ·ホール)池の中洲に建てられた四層軒切妻造りの建物。1688年に、ペッタ·ラーチャ王の命により建てられ、王はこれを終生の住居とした。王が池の魚を眺める際に座ったとされる玉座が残されている。
ソン·プーン·ホールバンヨン·ラッタナ·ホールの西隣に位置。主に歌の稽古などに用いられていたが、プラ·ペット·ラーチャ王の時代には、謁見の間として利用された。

 
  チャイワッタナラム寺院

    この美しい寺は、プッタイサワン寺院同様、チャオプラヤー川西岸、ムアン島の西側に位置する。プラサート·トン王が1630年、その即位を祝うと同時に、母后ゆかりの地へ捧げるため建てさせたと言われ、クメール様式に似た建築様式が用いられている。以前、現存する大仏塔(プラーン)を囲むように8つの小仏塔があったそうだが、今は残っていない。その大仏塔の下には、仏舎利など聖物が納められていたと言われる。大仏塔の東側には、出家の間がある。それ以外にも、降魔印(*ウィハーン·プラ·モンコン·ボピット参照)の型を取る砂岩製の本尊や、その北側にはタマティベット王子(グン·ラッタナカウィ王子)、ジャオ·サンワン及び王の第一の側室であったニム妃3人の遺骨が納められている三基の仏塔が崩れかけた状態で残っている。今は、廃寺となっているが、仏塔は良い状態で残されている。
 
  ナ·プラメン寺院

    1503年、ラーマティボディ2世の時代、プラ·オン·イン僧侶による建立。元々の名をメルラーチカラム寺院と言い、王宮向かいにあった蓮池の縁に建てられた。その後、マハジャカパディ王の時代、ナ·プラメン寺院とハサダワット寺院の間に離れが建てられるが、その建物内で後のアユタヤ陥落時、ビルマ王ブレンノンとの休戦協定が結ばれている。アユタヤ朝初期の建築様式が用いられている本堂出家の間には、窓がなく、代わりに細長い長方形の穴が開いている。見ものとしては、①降魔印の型を取り、衣装をまとった、タイで最も美しい仏像と言われるブロンズ製の本尊、②本堂の切妻屋根のレリーフ。チーク材で出来ており、そこには、ナーガ神(蛇神)の頭を掴んだ聖鳥ガルーダに乗った、ヒンズーの神ナラヤナが、26人の女神に囲まれている姿が彫られ、その上に金箔が施されている。③僧侶の席に記されたカープヤニーとカープスパープと言う名の詩、④ウィハン·キエン堂の扉に彫られたラーマ3世時代の彫刻、⑤本堂内の壁画及びタワラワディ時代の仏像、がある。この寺は、現王朝のラマ3世の治世になって、修復された。
 
  パナン チェン寺院

    アユタヤ市南部、チャオプラヤー川岸に位置。この寺の創建に関して、確かなことは分かっていないが、アユタヤ建国前と思われる。 礼拝堂内の大仏像は1324年の作で、当初は?プラ·ジャオ·パナン·チェン?と呼ばれていた。しかし、1854年、ラーマ4世による修復の際に、?プラ·プッタ·トライラナタ·ナーヨック?と改名されている。 この仏像は降魔印の型を取る坐像で、肘から頭までの高さが20,17メートル、幅19メートルという大きさを誇り、タイ国で一番古く大きな仏像とされている。
 
  クンペーン·ハウス
    ウィハーン·プラ·モンコン·ボピットの南、プラトゥー·チャイ地区、スィー·サンペット通り及びパトン通りに面した場所にある。タイの長編詩物語?クンチャンとクンペーン?とは、実際関係ない。タイの伝統家屋を、子供たちの学習目的のために復元させたもので、全部で5棟ある。それぞれの棟は、ルアン·アク、ルアン·トー、ホー·プラ、ホー·ナン、クルーア·ファイと呼ばれ、異なる建築様式を取っている。
 
   
 
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